母が家出してからの記憶は、養護施設へ行くまでの刻々の一年間の記憶。さまざまな印象が絵のように、小説のように刻まれ、濃密な掛替えのない私の時、私を造り、私を自覚させ、母が家出する予感はあった。朝起きて真っ先に母を探した。裏の炊事場、便所、自転車置き場。「お母さんがいないよ」と父に言ってみた。父は答えなかった。母の家出は決定的となった。自転車があるということは、歩いて行ったんだ、古井の駅までまだ歩いているかもしれない。私は自転車に三角乗りして、田中に人の影を探しながら夢中で自転車を漕ぐ、まだ学校にも上がってない妹を置いて家出しないだろうと考えていた事が甘かったと悔やむ、この数日は、もはや私が入ることが出来ないほど、母の心も、父の心も、希望を失っていた。でも、泣いて、怒って頼んでいたら、寝ないで番をしていれば、後悔がどっと押し寄せていた。間もなく穂が出る、私の背丈ほど伸びた、駅までの緑の田がどこまでも広がっているような遠さに襲われた。そんな景色の中へ汽車が入ってきた。もう間に合わない、力が抜けて自転車が漕げなくなる。母がもし窓からこちらを見ていれば、私を見つけるかもしれない、私は立ち止まって汽車を見送る。自転車を引いて駅まで行ってはみた。一時間に一本ほどの駅のホーム、どこを見渡しても人影はなかった。
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